虫の家

昨年の秋、知り合いの娘が、大事に箱を抱えて、お土産を持って来てくれた。

珍しい虫が居たので、大切に連れて来てくれたというのだ。空気穴を開けて、ドアまで付いている。

覗くと、葉っぱの陰にカメムシが上目遣いで座っていた。

気持ちは嬉しいので、箱だけ部屋の片隅に取っておいたが、絵を描いて、そろそろ片付けよう。









水墨画を楽しむ

水墨画は簡単な道具で、奥深い表現もできる絵画だ。
俳句のように、誰でもが楽しめると良いと思う。
 
一番簡単にできるのは何だろうと思い、手身近かの筆ペンとティッシュペーパーで、机の上の腕時計を描いて見た。


 
これでは墨絵なので、水を加えてみると、急に緊張感が走る。
いや、恐ろしいものだ。
 

チューリップ




読んでおきたいと、思い続けている本がある。

しかしそろそろ、この調子では一生読めないと慌てだしている。

昨年はやっと2冊ばかり読んだが、10年以上ほとんど進まずに、畳の上で変色している本がある。

このままでは無理だと判断して、現代語訳を電子版で買い込んだ。
カンニングだ。

まだ知り合いの和尚様から借りて、全然進まない本もある。こちらは読んでも分からないから、暫く借りっ放しで、お許しを乞おう。






ストーブの上の薬缶

    やっと、描こうと思っていた水墨山水に取り掛かる。

     

    完成された絵の持つであろう、空気感やエネルギーの質は分かっているので、直ぐにできるかと思っていたが、1日やって、全く思うようにならない。そればかりか、ドンドンと離れていく。

    肩に力が入っている。形に囚われている。

 

そうした物から離れて、無心でありたいのだが、子供のようにではなく、あくまでも美術史を踏まえての無心でありたい。 

  

    さて、何とかなるのだろうか?

    水墨画は騙せないので、あからさまに己と面を付き合わせることになる。

    ダメな時はダメだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


刈り込まれた冬の木

210日づけの東京新聞に、鷲田清一氏の寄稿があり、首肯くところがあったので、自分なりに要約してみた。

 

氏は、エリオットを引用しつつ、社会の過度の統合も過度の分断もいずれは「圧制」を招き寄せる。と述べ、

 民主主義は一方で、社会の過剰な統合に対してリベラルな「民主化」の運動として立ち上がるだけでなく、 

 もう一方で、現在のように「格差」や民族対立、排外主義といった社会の分断が過剰なまでに深化してきているなかでは、むしろ共有可能な価値を模索しつつ人々をつないでゆく運動として求められもする。と述べ


 次に、民主主義は「国民」という同質的な枠組みにおいて機能するだけでなく、家族や地域コミュニティ、エスニック集団や国家からさらには人類社会まで、いわば多次元的に模索されるべきだ。と言う


 そして最後に、民主主義的な決定には、社会を構成する現メンバーだけではなく、死者や未来世代という不在の人達の現在も背負っている。と述べている。

 

 鷲田氏が京都芸大の学長である事も考えあわせて、芸術の果たす役割があると思った。

   

  

  

  

  

  

  

アネモネ



昨年、劇場公開されていた「エイミー」のDVDを、娘が持って来てくれたので、見ていた。
才能ある人なのだが、開花の仕方、破滅の仕方に心が痛む。人間というもののあり方に、関わることなのだが、悍ましくもある。


比較で、浅川マキのことを思い出したが、エイミーには無理なことだった。

悲劇を見せられたということだろう。
カタルシスはない。

せめて春の花をおくろう。