京都府画学校では、明治時代末期に運筆の教授を止めている。
栖鳳が筆の画家なのに、なぜそれを許したのか解らず、この辺りの事情を知りたいと思っている。
たまたま昨日、京都の絵具屋さんと電話をしていた時に、
「ある絵描きさんから、栖鳳さんに運筆を止めるようにと言われたと聞いたで。」
という話しが出た。
運筆の型に嵌まる事を避けるようにと、人を見てその言葉が発せられたのかどうかは解らないというのだが。
あの時代には、運筆を止める事で、やがて筆が無くなるとまでは考えられなかったのだろうか。
あるいは、栖鳳自身が筆の未来を信じられなかったのだろうか。