2012-01-01から1年間の記事一覧

天国へは行かない

新聞に永六輔による小沢昭一への追悼の記事が載っていた。「小沢さんは天国に行かないの。似合わない。小沢さんは草葉の陰にいるんです。ちょっと草をどけるとそこにいるんです。」 死者は私たちと共にあって、天へ葬り去らないという事が大事に思える。消去…

かぼちゃタルト

かぼちゃタルトとコーヒ組み合わせが美味しかった。

月並みの風景

畑の向こうに寺の屋根のある風景なんて、あまりにも月並みなのだが、悪くない。 なにも考えないで、ただ写生。 でも、ここから面白いものが出てきそうな予感はする。悪くないという感覚のなかに、ヒントがあるのだろう。

紅葉する桜

住宅地の公園の片隅に立つ桜。 普段は通り過ぎるのだけどね。

京都個展を終えて帰宅する

十日以上も家を離れていたので、帰宅するとその寒くなっているのに驚く。 あわてて、アロエの鉢などを玄関に入れる。 雑事が溜っているのだが、絵も描きたくて仕方がない。 水墨についても、新たに展開を始めたいので、強制的に描き出そうと思う。 雑用の終…

御岳

朽ち木の茸

土踏まずの一日になりそうなので、封筒を手にしてポストまで出かけた。 高齢者ばかりになった集落なので、道の掃除もままならず、石垣沿いに雑草や落ち葉が溜まっている。 ふと目に止まったのが、この朽ち木。 苔と茸の生え具合が絶妙。 拾って庭先のテーブ…

山梨

朝方、落ち葉を掃除していて山梨を拾う。絵になると思って、幾つか拾いはじめた。中には動物の齧った跡がある物も・・・それとも鳥だろうか? ついでに落ち葉も拾う。先日の雨でほとんどが濡れ果てて茶色く堆積している。 丁寧に一枚一枚拾いながら、ふと、…

メジロを拾う

散歩の途中でメジロを拾う。頭に打撃を受けていて、どうやら大きな鳥にやられたようだ。 しかし、この写生は下手だなぁ〜。まぁ、慣れないという事で言い訳としておこう。

高野箒

描いていて、花が薊と似ているのに気がつく。キク科という事らしい。 集めて箒の材料としたというが、奥多摩ではそれほどは生えていない。

山ー目が変わる

このデッサンを見ても、普通の人は何とも思わないだろう。 しかし、描いた本人は驚いている。 今までのデッサンと全然違うからだ。 明らかに、目が違ってきている。 良い悪いの問題ではなく、その変化にただ驚いている。 何が変わったのだろう? どうやら、…

大文字草を眺める

秋の花は小振りなのだが、回りの自然の色調が鈍くなっているので、その色が印象的だ。 鉢に植えた大文字草を、重なった鉢の間から引っ張り出して、ベランダの机の上や食卓の上において、眺める。 何を眺めているのだろうと思う。なにか、後ろにあるのだ。

ファッション写真

ファッション誌の写真を見て写してみる。 どうなんだろう? 幾つにも作られたフィルターを、さらに読み替える事の作業は、結構難しそうだ。 今回は失敗。

薊 山に秋風が吹きだすと

山に秋風が吹きだすと、急に寂しくなる。 総てが、冬に向かっての回転を始めた事を意識するからだろう。 畑や山の仕事も家の周りの仕事も、総てが冬に向かって時間読みが始まるのだ。 花に集まる虫たちにも、なにか慌ただしさを感じるようになる。

額屋を探して

今まで永年付き合ってきた額屋がだめになったので、新しい額屋を探して墨田区までやって来た。 チェーン店で珈琲を頼んだのだが、このあたりではの、独特の風があって面白い。しばしオバサンたちの会話に耳を傾ける。 しかし、額屋については諦めた。こうし…

秋海棠ー日本画という物を考える時

日本画という物を考える時、それを単なる素材の問題と考えて、油彩に対する膠彩と呼んだり、歴史的な観点から、国家主義的な産物に過ぎないという論議はそれなりに面白いが、画家としては学者たちの仕事と余所事に聞く。しかし、そんな発言が大手を振るうよ…

曼珠沙華

つい魅かれて画題にするのだが、描きだすと難しい事に気がつかされる花だ。 花の赤と茎の黄緑が鮮やかなのが原因なのだが、いかに色彩の力が強いか思い知らされる。 この厄介な画題にそれなりの結論を出してから、前回の結論を思いだすのだから、迂闊者だ。 …

柚子

柚子をもらう。もうそんな時期なのだ。 暑くて、もう限界だと思ったのはつい、何日か前の事なのに。 ついでに、日の出町の大久野に熊が出たという話を聞く。 今年は夏ごろから、熊が頻繁に人家近くに出て、飼っている鳥などを取っていったりする。 山の様子…

ゴーヤ

個展を終えて、都心生活から奥多摩の山へ帰ると、気温がすっかり秋の冷気に変わっている事に気がつく。 台所の前に植えたゴーヤもそろそろ終いだ。 大分に住んでいた、嫁ハンの祖父が好きだったというのを思い出して、ゴーヤを焼いて味噌で食う。 生前に一度…

デジカメ

デジカメは写真とは異なる。 光学器械を使ったイラスト作成装置なのだ。 したがって、デジカメと絵画は親和力が強い。 私の興味は、このことでカメラと絵画が失った物である。 それは、共に身体性である。

石田のもり

山科に、馬淵幽明先生を見舞う。 病院の面会時間に合わせるために、途中の社へ詣でた。石田の杜神社だった。石碑に 山科の石田乃祚原みつつ君が山道越ゆらむ とあった。幽明先生の回復を祈る

水田のある風景と云うものも

水田のある風景と云うのも、だいぶ少なくなってきた。 まして東京となると。 時々、ここへやって来て、稲や蓮の田んぼの向こうに、山やお寺の甍のある風景を眺めるのは、精神安定的によろしい。

今年3つ目の西瓜を

今年3つ目の西瓜を買った。 最近は、冷蔵庫に入らないからとか、 もう夫婦2人の生活だからとかで、小玉スイカになってしまっているのが寂しい。 今日は思いきって大きな西瓜を買った。 八百屋で「一番大きな奴!」とえばって注文をつけた。 帰宅して、意気…

やぁ、冬瓜だ!

やぁ、冬瓜だ! 私は此奴が好きなんですね。 その茫洋とした姿と味に 大人の風情がある。 今日は小分けにされて、大きな鉢に浮かんでいのを台所で発見。 なになに、なかなかに涼しげな色気があるじゃないですか。 おや、酒が切れている。 残念。

八重の向日葵を見ると

八重の向日葵を見ると、どうしても思いだすのはゴッホだ。 そんなもので、これを写生して彼の絵から抜け出すのはなかなかに厄介だ。 などと思いながら、これを描く。 また、楽しからずや。

カボチャと対面する

カボチャと対面する季節となった。 しかし到来物のこの御仁には、しょうしょう当惑気味だ。 いったい、これはまともな氏素性の輩かどうか、まずそこからが分からない。 まぁ、カボチャ族と云うのは、皆それなりに一癖ある奴らだから致し方ないとして、 まだ…

梅干しを乾す時に

梅干しを乾す時に、いつも思いだすのは、五日市徳雲院の加藤耕山老師と、四條畷学園小学校の原口好博先生だ。ともに草葉の陰におられる。 老子の元では末席にも加われなかったので、その梅干しも味わっていない。遠く眺めていただけだが、いまだにその香りを…

山百合

山百合の蕾が落ちて、玄関への道の途中に落ちていた。 まだ固い蕾で、木陰に白く紡錘形を保っていた。 3、4日が経って、蕾は地面の上で花開いた。 もう、実を結ぶ事はできまいに。 絵にして、花を草葉の陰に横たえた。

雲風呂橋

半夏生

梅の樹の下に植えた半夏生だったが、だんだんに他の草に追われている様子なので、今年は一株植木鉢に植えてみた。