竹内栖鳳覚書4

 高野箒
 
今回の竹内栖鳳展では、久しぶりに纏まって彼の作品を観る事が出来た。
やはり、栖鳳の技術はずば抜けているのだが、それが何ものかは、考える必要がある。
 
同時代に東で君臨した横山大観の絵は、若い時の物に良い物が多い。
後年の作は一瞬魅力的に見えるのだが、止まって熟視すると、すぐに飽きる。
今では時代遅れになってしまった図像的な通俗性以外に観る物が無いからだろう。
 
これに比べると、栖鳳の絵画には常に課題の解決が試みられているので、(あの技術に頼る事はしていない、むしろあの技術を必要とした)、それを辿って見ているだけでも興味は尽きない(未完成の作品や、失敗と思われる物がでも。)
しかし、何か常に背負った物が有り、楽しみにいささかの陰が生じる。
そういった意味で、私は力みの無い彼の小品の方が好きだ。
 
栖鳳は伝統と新たな西欧の知見によって絵を描いたのだが、伝統の意味を一番良く理解していたのは彼だろう。
日本美術院の画家たちは、江戸狩野派フェノロサという組み合わせによって、江戸時代の成果を理解できなかったのではないかと考えている。